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不昧公の正室・方子と娘・玉映の落款
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オススメ度 4.8点
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自筆「源氏物語」の「真木柱(まきばしら)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。。
原文は「源氏物語・真木柱の巻」として美しく描かれている
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。【中古】 諜報・工作 ラインハルト・ゲーレン回顧録 (1973年)。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。【中古】 洋酒全書 (1975年)。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。【中古】 強制収容所における「生」 (1974年)。現在の今上天皇と系譜がつながっている。【中古】 仏教と社会の諸問題 (1970年)。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。【中古】 八面体質診断学 2 (1978年)。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。【中古】 ドイツ教育史 思想史的・社会史的考察 (1979年)。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。【中古】 デシジョン・テーブル ─テーブル化による思考整理学 (1972年)。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。【中古】 魚肉ねり製品 理論と応用 (1974年)。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。【中古】 イメージとシンボル (1971年)。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。『大工雛形』(2冊)須原屋治右衛門板 江戸時代和本 建築装飾雛形 大工書 大工雛形書 木工雛形書。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。【中古】 国籍と人権 (1975年)。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。写本 御上洛二図 善悪道中独案内 嘉永2年 天理教 神道 儒学 仏教 徳川幕府 検)将軍 古書和書古本古文書 NS。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。【中古】 民族と文化 上 (1970年)。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。【中古】 国際政治 下 (1973年)。また、各巻ごとの書かれた年については不明。【中古】 バラック浄土 (1982年)。従って、応永五年とは、書き始めの年である。【中古】 アメリカ教育文化史 (1977年)。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。【中古】 楽園からの最後の言葉 (1979年)。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。【中古】 独占とマーケティング (1973年)。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。【中古】 美の座標 (1973年)。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。【中古】 躾の時期。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。b■* 神社祭式 式部寮 木版刷 彩色絵入 和本 /b21。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。【中古】 青年の心理 (1973年)。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。【中古】 指導のための地図の理解 (1974年) (社会科における理論と実践シリーズ 3 )。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。【中古】 かわら日本史 (1972年)。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。【中古】 イタリア文学史 2 ルネサンス (1973年)。
旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。【中古】 日本の飲酒を考える (1975年)。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。【中古】 都市近郊 武蔵野の変容 (1969年) (グローバル・シリーズ)。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。【中古】 わが愛と叛逆 (1969年)。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。【中古】 物類品 (1972年) (生活の古典双書 2 )。
出品した「源氏物語」は真木柱(まきばしら)の内容の要旨
「真木柱の巻」は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。【中古】 サラブレッドの世界 (1971年)。第31帖。【中古】 産業史における労働組合機能 イギリス機械工業の場合 (1970年)。尚侍(ないしのかみ)として宮廷に出仕を控えていた玉鬘の姫君だったが、その直前に髭黒大将が女房の手引きで強引に結婚することになった。【中古】 現代日本の政治体制 (1969年)。髭黒大将はその後玉鬘の姫君を迎えるために邸の改築に取り掛かる。K90K2-231128 レア[肥前国神崎荘資料 荘園史料叢書 瀨野精一郎]長秋記 大政官符案。だが、その様子を見た北の方(髭黒大将の正室)は絶望し香炉の灰を髭黒大将に浴びせる。【中古】 法人類学入門 (1974年)。この事件で完全に北の方に愛想を尽かした髭黒大将は玉鬘の姫君に入り浸り、とうとう業を煮やした北の方の父・式部卿宮は、髭黒大将の留守の間に北の方と子供たちを迎えにやる。【中古】 指揮法 (1968年)。明けて新年、相変わらず塞ぎこんでいる玉鬘の姫君に髭黒大将もようやく出仕を許す気になり、玉鬘の姫君は華々しく参内する。【中古】 政治権力と人間の自由 (1971年)。早速訪れた冷泉帝は噂以上の玉鬘の姫君の美しさに魅了されて熱心に想いを訴え、それに慌てた髭黒大将は退出をせきたててそのまま玉鬘の姫君を自邸へ連れ帰ってしまった。【中古】 羅西日辞書 (1979年)。
自筆右下四つの印のうち下2つは、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印、上2つは、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。【中古】 現代陶芸の旅 作家名鑑 (1971年)。
原本自筆上部には、「年光東流水」(年光東流の水)漢文の篆書印が押捺されている。【中古】 東西文明の交流 1 漢とローマ (1970年)。白楽天の有名な漢詩です。【中古】 教育的解釈学・国語教育論 (1973年) (国語教育名著選集 1 )。言葉の意味は、「時間の流れは東へと流れる川の水のように止まることなく流れてゆく」です。【中古】 武道初心集 (1963年)。「源氏物語」真木柱の巻の原文中には、「おほつかなき月日も重なりぬるを」とあります。【中古】 絵と音楽の対話 名画にみる楽器 (1977年)。源氏の君が恋する玉鬘の姫君への懐かし想いを記したものです。清宮秀堅編『近古詩鈔』(全3巻4冊揃)明治6年 玉山堂刊 千葉県香取郡佐原生の国学者が編んだ漢詩集 明治時代和本。現代語訳では、「お逢いしないうちに月日も重なってしまいました」というものです。【中古】 ワイマール共和制の成立 (1980年)。紫式部が「真木柱」を書くに際し、白楽天の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。【中古】 近代民衆教育史 国民教育への道 (1971年)。詳細な理由は下記説明欄に記載。【中古】 絵画の彼岸 (1975年)。
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載
《「源氏物語」真木柱(まきばしら)の巻》
言葉の意味は、「時間の流れは東へと流れる川の水のように止まることなく流れてゆく」です。【中古】 新しい聞き手の文法 (1978年)。
「自筆原本」
自筆右下の2つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。【中古】 現代民主主義国家 (1969年)。
自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)
自筆が「古切」とされたのは江戸時代。【中古】 北の工芸 (1975年)。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。【中古】 日本の女性史 第5巻 維新開化と女性 (1975年)。
《「源氏物語」真木柱(まきばしら)の巻》
《めつら(珍)しうおかしさ》・・・・・まさりておほ(覚)え給ふ
有さま(様)に、いとゝ心をわ(分)くへくもあらすおほ(覚)えて、
心うけれは、久しうこも(籠)りゐ(居)給へり。太宰治全集 全 10 <ちくま文庫>。修法なとし
さは(騒)けと、御ものゝけこちたくを(起)こりてのゝしるを
き(聞)ゝ給へは、あるましききすもつき、はちかましき
こと(事)かなら(必)すありなん、とおそろしうて、
よ(寄)りつき給はす。【中古】 トランジスタ回路演習 (1968年)。殿にわた(渡)りたま(給)ふとき(時)も、
ことかた(方)にはな(離)れゐ(居)たま(給)ひて、君達はかりをそ、
よ(呼)ひはな(放)ちてみ(見)たてまつ(奉)り給ふ。【中古】 風をたずさえて (1977年) (New music personal books)。
女ひと所、十二、三はかりにて、またつきつき(次々)おとこ(男)
ふたり(二人)なむおはしける。【中古】 負けてたまるか! (1972年)。ちか(近)き年比となりては
、御中もへた(隔)ゝりかち・・・・・《にてならは》
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。【中古】 ステレオ 聴く人の創意とよろこび (1968年)。
《「源氏物語」真木柱(まきばしら)の巻》
《大雪の日・玉鬘の君の邸に行こうとする大将の装束に香をたく北の方(正室)》
《髭黒大将の北の方、大将に背後から香炉の灰をふりかける有名な場面》
《(髭黒大将)「昨夜の情けない一件に気持が落ち着かないでいると、
くゆる煙が立ちそうように、いよいよあれこれと後悔の念がわいてくることだ。【中古】 解析入門 第2 (1969年)。
まったくとんでもないあの騒ぎなどが、もしあちらのお耳に入ったら、
この自分はどっちつかずの身になりかねまい」
と、ため息をついてお出かけになる。【中古】 有効競争の理論 (1970年)。
わずか一夜逢わなかっただけなのに、その間にもまた一段と
おみごとに・・・・美しさのましたと思われなさる女君(玉鬘の姫君)のご様子に、
大将(髭黒大将)はますます余人に心を向けよう気にもなれず、
北の方(髭黒大将の正室)に対しても嫌な気持なので、長いこと
この女君(玉鬘の姫君)のもとに入りびたっていらっしゃる。【中古】 女のいる群像 (1977年) (ハヤカワ・リテラチャー)。
北の方(髭黒大将の正室)のほうでは修法(ずほう)などして騒いでいるけれど、
御もののけがたくさん現れてきてわめきたてているということをお聞きになるので、
大将(髭黒大将)は、そんな有様ではとんでもなく不面目なことになり、
恥をかきそうなことがきっとあるだろうと、おそろしくてお寄りつきにもならない。【中古】 現代詩人論 (1975年)。
お邸に帰られる折も、別の離れた部屋にいらっしゃって、お子たちだけを
お呼びたてになってお会いになる。【中古】 見果てぬ夢 5 燕よ、なぜ来ない (1978年)。
北の方(髭黒大将の正室)の御子のお年のほどは十二、三ぐらいで、
その下に次々と男の子が二人いらっしゃるのだった。【中古】 自閉症の実践教育 (1974年) (心身障害教育シリーズ)。近年になってからは、
ご夫婦仲も疎々(うとうと)しくなっておられたけれど、・・・・・《これまで本妻として
ほかに並ぶ人もなく過していらっしゃったのだから、それだけに
今はもうおしまいと北の方(髭黒大将の正室)がお思いになるので、
お仕えする人々もたいそう悲しい気持になっている。【中古】 日本人の体力標準値 (1975年)。》
備考・髭黒大将の北の方(大将の正室)は、紫の上の異母姉
現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)
備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。【中古】 ヨーロッパの闇と光 (1970年)。
《The Cypress Pillar(真木柱)》
He could not divide his affections.
He stayed with her for several days, hoping to forget
the disturbances at home and fearful of incidents
that might damage his name yet further.
The exorcists continued to be busy, he heard, and malign spirits
emerged noisily from the lady one after another.
On occasional trips home he avoided her rooms and saw
his children, a daughter twelve or thirteen and two younger sons,
in another part of the house.
He had seen less and less of his wife in recent years,
but her position had not until now been challenged.
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
《真木柱》
他家中日大修法祈祷,然而那鬼魂越来越凶,
大肆。【中古】 音楽工学 (1969年)。髭黑大将之,想此刻如果家,
必出丑,被人耻笑,害怕之,越不敢回去。【中古】 事実としての法 (1969年)。
后来然回去,也居在室中,只把子女叫来一番。【中古】 トップの本音 利潤と社会責任のジレンマ (1978年)。
他有一个女儿,年方十二三。【中古】 税務用語事典 (1972年)。下面有个男孩。【中古】 古代インドの説話 ブラーフマナ文献より (1978年)。
近几年来,他夫人然逐疏,
但把当作一位高无比的正夫人看待。【中古】 屋良朝苗回顧録 (1977年)。
如今看看情即将断,侍女都得十分悲。【中古】 サッカーに賭けた青春 (1969年)。
中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)
左の写真が「源氏物語」真木柱の巻の末尾(原本番号40-B)の押印。【中古】 化学史塵 (1978年)。
写真左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の2つの印は仙台藩主第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。【中古】 近代日本教育論集 第5 児童観の展開 (1969年)。冬姫は内大臣・通誠の養女。【中古】 回想の旅順・大連 (1974年)。
冬姫は通称。494古注 全6巻合本1冊揃 ■和漢朗詠集私注■ 注釈書 古註 江戸初期前期時代物 古版本 木版版本 和本古書古文書和書古本古典籍骨董古美術。正式な名は伊達貞子。【中古】 グループ・ダイナミックス 第2 (1970年)。
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。【中古】 管理通貨と金融資本 (1974年)。
表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。柳煙亭種久著 歌川芳虎画『桜影花関守』(全3編12巻揃)文久元~3年 甘泉堂刊 江戸時代和本 合巻 絵草紙 草双紙 浮世絵 錦絵。)
(出品した自筆の「断層画像写真」(真木柱の巻)MRI 31―16B
「源氏物語」真木柱の巻の絵の資料
下記写真は、髭黒大将の北の方(正室)が大将の香炉の灰をに浴びせる画面の絵
1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。【中古】 準拠集団 青少年の同調と逸脱 (1968年)。
「年光東流水」(年光東流の水)漢文の篆書印が押捺されている。当方、先祖より代々受け継がれ曽祖父蔵保管 中津 古文書。言葉の意味は、「時間の流れは東へと流れる川の水のように止まることなく流れてゆく」です。【中古】 愛はすべてではない (1968年)。白楽天の有名な漢詩です。【中古】 光の五線譜 3 (1978年)。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。【中古】 イエスは結婚していたか (1974年)。
つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。【中古】 社会教育における学習プログラムの研究 (1973年)。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。【中古】 ワシプンゴ (1974年)。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。【中古】 だれにもできるサイクリング (1968年)。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。【中古】 可愛い仲間たち (1975年) (ギフトブックライブラリー)。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。【中古】 音楽のリズム構造 (1968年)。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。★0491江戸安政6年(1859)弓道弓術巻物「日置流弓許状」1点/鹿野安志ほか/古書古文書/手書き。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。【中古】 日本現代写真史 1945-1970 (1977年)。撮影後、展示のために再表装をしております。【中古】 日本古文化論攷 (1970年)。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。【中古】 日本燈火史 (1974年)。
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。【中古】 からだ (1974年) (ふおるく叢書 4 )。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。【中古】 フランス農村社会史 (1973年)。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。【中古】 白球の星を追え! ドラフト会議までのスカウトの暗躍 (1978年)。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。【中古】 教育行政の理論と構造 (1975年)。
2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。【中古】 インフレーションと失業 (1978年)。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。黒沢翁満『藐姑射秘言』(全2冊揃)安政6年跋刊 江戸時代和本 鶴岡春三郎旧蔵書(「春盞樓」)国学者 情事集 秘本 春本 はこやのひめごと。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。伊勢暦 文化10年より 55枚 (大判竪30センチ位) 佐藤伊織。
「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。【中古】 実戦カメラのテクニック (1978年)。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。【中古】 意思決定の科学 (1979年)。
3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について
近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。【中古】 コミュニケーション・プロセス 社会行動の基礎理論 (1972年)。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。【中古】 ニッポンなんでも10傑 (1978年)。
4・近衛基熙(このえもとひろ)について
近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。【中古】 デカルト伝 (1979年)。母は後水尾天皇皇女女二宮。sw0411 文化10年 ◆和本◆ 「繪本孝經 全」 画:蕙斎(北尾 政美)。実母は近衛家女房(瑤林院)。【中古】 評伝バーク アメリカ独立戦争の時代 (1977年)。幼名は多治丸。【中古】 栄光の自動車レース (1978年)。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。中興鑑言。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。【中古】 日常生活批判 第2 (1970年)。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。画報 日本近代の歴史 全13冊。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。【希少】三奉行問答 問答集1 石井良助/服藤弘司 創文社【ac01w】。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。●極上和本YM1656●悦目抄[引括抄・佚名抄]伝藤原基俊作 正保2年最古刊本 歌学 刷り良好。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている
ツイッター「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。【初版1944年】日本演劇辞典 渥美清太郎 当初5000部発行版。
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